昭和41年07月17日 夜の御理解



 信心をさせて頂いて、何かこういわゆる悲しい時の神だのみ的な、何が何でも無我夢中にそのお縋りすると云う事によって、まあ棚からぼた餅が落ちる様な、おかげを願うと云った様な、今あるんですけど、それは間違いだと。神様を拝むと云う事だけで、一心になっても駄目である。私共が日々の生活の中に教えを基にしての全ての事を、実意を以って大切にして行くと言った様な事に、一心にならせて頂くと云う事と同時にそんの祈りというなものが大事である。
 そこから、いうなら奇跡と云った様な、普通では思いもよらないおかげというのが生まれて来ると思うですね。今日はあの、夕方ですね、正教さんがあの弟の事が新聞に載っとる、まああのお父さん達が見えました。そん時にまあ切り抜いて持って来て下さったんでしょう。朝の新聞に出ております。え高校の、高校野球ね、野球の選手です。この私はその野球の事も分かりませんし、その難しいというか、そのあちらの言葉使っておるから意味分かりませんけどれも。
 その竹内選手は、チャンスに強いと云う事が、書いてある。何時の場合でも、そのチャンスに強い。それも、どういう意味のに使われているのか分りません、何とか言ったね。[はいチャンスに強い]なんかな、その先の方の難しい事は、私に分らなかったんですけれどもね。これなんかでもその、なるほど矢張り、なら野球のやの字もしらん様な者が、そのいくらどうぞ、良い球を投げさせて下さいとか、受けさせて下さいとか願ごうても、駄目だと言う事なんですね。
 そんな野球稽古も熱心だと、けれどもやっぱりですね。他の誰がその、そうしてもみてもです、とにかく、竹内選手は確かにチャンスに強い男であると、いう認められる位のおかげを受けておるという。それだと思うんですよ、おかげというのは、それから皆さんもご覧になったでしょうかね。あの源義経がありよります。今日は、那須与一の扇の的を中心にしてでしたね。
 本当に敵味方それこそ固唾をのんで見守る中に、それこそ弓八幡を祈りながら何遍も何遍も(?)ね、船がこう上下にこう動いておる訳です、それを射ろうというのですから大変な事なんです、そこにあの弓八幡加護のあると同時に日頃矢張り、那須与一というのはそれこそ三羽の鳥ごと飛んでおるなら。二羽で打ち落とすと言う位のです。日頃に鍛えた腕というものと同時に私はそういう。
 例えば、弓八幡を祈るそこに、例えば的が定まる。定まった時に射ち放した矢が、見事に扇の要を射落として、波間に沈んで行く敵も味方もその誉めそやす。というその物語を中心でしたですよね。あれを見ながらでも、やっぱりそれを思うです。ただ、神様のおかげというのは、全然自分で稽古した事ない者でも、やっぱりこうやって、そこには神の働きがある筈がない。
 日頃の精進、日頃の努力の信心させて頂く者はそこでですたい、私共日頃の日常生活の中に、全ての事に実意をもって何事も大切にさせて頂くと云う事にです、精進させて貰、その事の稽古させて頂いて、愈々まさかの時はという一心を出させて貰う所にです。矢張り奇跡と思われるようなおかげも頂ける、いわゆるチャンスにも強うなると、云う事になるのじゃないもでしょうかね。
 私ここんところ私間違えてはならんと何か神様を拝む、なにかその神様だけが棚からぼた餅下さる様なものやない、こちらに矢張りキャッチするだけの精進。それを頂けるだけの力というものを日頃鍛えておかなければならないと云う事ですね。
      どうぞ。